
画像:早稲田大学公式ホームページhttps://www.waseda.jp/top/access/waseda-campus
文学部4年のN.Hです。
「この人、なんか文構っぽい」
「え、理工だったの?全然そんな感じしなかった」
早稲田で学生生活を送っていると、いつの間にか身についてくる“学部を見抜くセンサー”。話し方、服装、カフェで開いているPCの画面、持ち物、たたずまい――何気ない情報から、なんとなく「この人、◯◯学部では?」と察してしまうことがある。しかも意外と当たる。あるいは、見事に外れる。
そうした“学部の空気感”はどこから生まれるのか。今回はそれを少し真面目に、でもちょっと笑いながら考えてみたい。
文構には独特の存在感がある。黒縁メガネにボブ、布トートにはZINE。Spotifyから流れるのはLo-fi、提出するレポートには引用された詩。授業名も「記憶と都市」や「越境する表象」と、思わず身構えてしまうタイトルが並ぶ。
一方、文学部はというと、こちらは静かな強者たち。講義中に関係ない小説を読んでいても違和感がない。長いコートと古書店の匂いが似合う。話し方にどこか行間があって、「昨日、小津安二郎を観ててさ」が自然に出る稀有な人たちだ。
政経は、早稲田の中でも異彩を放つ。英字新聞を片手にカフェに座り、帰国子女のような英語と就活最前線の空気を同時にまとう。議論が好きで、ロジカルに話す。そして、どこかに「勝ちに行く」視線が宿っている。
商学部はというと、現実の地に足がついている感じがする。ExcelやGoogleフォームを使いこなし、グループでの動きに長けた人が多い。スタバで打ち合わせしていそう、というのはもはや定番のイメージだ。体育会系の勢いと、マーケ志向のロジックが共存しているのも特徴的。
社学になると、雰囲気はまた違う。どこか早稲田生の“縮図”のような集まりで、自由さが突出している。履修が自由すぎて世界線が違う。気がつくとフィールドワークに出ていて、次に会うときは何かの企画を立ち上げていたりする。
教育学部は、他学部と比べて最も“普通”を体現しているようにも見える。まじめで実直。教職を取っている人はひたすら忙しそうだが、取っていない人の過ごし方はのびやかで、いい意味で個性にばらつきがある。
法学部はシンプルに“テストの人たち”という印象が強い。六法全書を堂々と開く姿に圧倒されることもある。条文と戦う日々、試験に向けた緊張感。実際に弁護士になるかどうかはさておき、「あの人、絶対法学部でしょ」と思わせる風貌があるのも事実だ。
SILS(国際教養学部)は、英語混じりの会話、スマートなスライド資料、留学帰りのエピソードと、どこか“早稲田っぽくない早稲田生”が集まっているように見える。けれど、よく話してみると、どこか泥臭さや迷いを抱えていたりして、やっぱり早稲田だなと思わされる瞬間もある。
理工は、完全に別の時間軸で生きている。課題、レポート、実験、徹夜。誰よりも真剣に、黙々と何かと向き合っている。西早稲田キャンパスが「独立国家」と呼ばれるのも納得だ。彼らの前で「忙しい」は禁句である。
こうして並べてみると、それぞれの学部に“らしさ”がある。けれどもちろん、全員がそのイメージどおりではない。文構で体育会系、理工で詩人肌、SILSで日本語オンリー――そんな“ギャップのある個人”も山ほどいる。
学部とは専門であって、人格ではない。ただ、どの学部で過ごすかによって、どんな人と出会い、どんな言葉を交わし、どんな経験を積むかは大きく変わってくる。学部は人間性を決めないが、人間関係をつくる環境ではあるのだ。
「この人、◯◯学部っぽい」と思ったとき、それは偏見ではなく、観察力の結果かもしれない。けれど、そこからもう一歩、「実際はどんな人なんだろう」と想像できるかが分かれ道になる。
学部は入口。人間はその先でにじみ出る。偏見を面白がることも時には大事だけれど、それ以上に、それを越えて人と出会っていくことが、早稲田の“自由”を本当に面白くする。
「学部なんて関係ない」と言いながら、学部という器の中で、私たちはたくさんのことを考え、迷い、出会ってきた。
きっとそれで、十分じゃないだろうか。