──4年間の時間が、ふと押し寄せる瞬間
卒業が近づいてくると、不意に日常の風景が違って見えることがある。
それは授業が終わったあとの帰り道かもしれないし、学生証を返却した日、あるいは卒業式の帰りにふらりと立ち寄ったキャンパスかもしれない。
そんな「何気ない最後」に、静かに心が揺れたという声を、多くの早稲田生から聞いた。
「もうここには、毎日来ないんだな」と気づいたその瞬間。
歩き慣れたはずの通学路が、なぜかひどく名残惜しくなる。
卒業式ではなく、静かな日常にこみ上げた感情
学生証を返却したあと、なんとなく本キャンに寄ってみたという教育学部の4年生。正門をくぐり、大隈講堂を見上げた瞬間、1年生の春、ガイダンスに緊張していた自分の姿が思い出されたという。
「何かをしに来たわけでもないのに、歩いているうちにいろんな記憶が出てきて、ちょっと泣きそうになったんです。自分、ちゃんと通ってたんだなって」
別の学生は、サークルの仲間と何度も通った道を、卒業式の前日にひとりで歩いた。戸山通り、夜の坂道、夕焼けに染まるキャンパス。その道が同じなのに、感じ方がまるで違ったという。
「あれだけ賑やかだったのに、ひとりで歩いたら“もう戻らないんだな”って分かっちゃったんです。普通に歩いてただけなのに、時間が止まったみたいで」
大学を歩くということ
講義を受けた教室、レポートに追われた図書館、何気なく座った階段――。それらの場所を、卒業前のある日、意識もせずにもう一度通り過ぎる。すると、そこで過ごした記憶がふいに身体に宿り始める。
「16号館の階段に座ってみたんです。1年生のとき、よくそこでぼんやりしてたから。誰もいなかったけど、その静けさが、逆に“ここが自分の場所だった”って感じさせてくれました」
そう語るのは、文学部の学生だ。
政経の学生は、卒業式のあとに中央図書館へ寄った。たまたま本を返す用事があり、地下の閲覧席を何気なくのぞいたという。
「そこに、1年の頃の自分がいたような気がしたんです。SPI対策をしてた、焦ってた、まだ何も分かってなかった自分。でも確かに、そこにいたなって」
“さようなら”を言わないまま、何かが終わっていた
卒業式ではない。写真を撮るイベントでもない。ただ、帰り道に寄ってみたキャンパスで、自分だけの「終わり」を静かに受け止める人がいる。
挨拶もない。別れの言葉もない。ただ、歩いた先でふと立ち止まり、「ああ、もうこの道は毎日通らない」と思ったとき、その人の中でひとつの季節が終わる。
「卒業って、イベントじゃなくて、“いつもの道を通らなくなること”なんだと思ったんです」
とある学生の言葉が、その感覚をうまく言い表している。
“どこを歩いたか”が、大学生活の記憶をつくっていた
振り返ってみると、大学の4年間で最も心に残っているのは、講義の内容でも、テストの点数でもなかった。
むしろ、「誰と、どこを歩いたか」という記憶の方が、ずっと鮮やかだった。
坂道の途中で立ち止まった会話。
昼休みに食堂から図書館へ向かう足取り。
サークルのあと、何も話さずに並んで歩いた夜の通学路。
就活で落ち込んだ日、いつもと同じ景色が少しだけ滲んで見えたこと。
時間ではなく、足跡が、大学生としての自分を記録していた。
最後に見た風景が教えてくれたもの
ある学生は、大隈銅像を見上げて立ち止まったという。スーツ姿で、たまたま正門を通った帰りだった。
「“また来いよ”って、言われた気がしました。勝手な思い込みかもしれないけど、それだけで、ちょっと安心できたんです」
別の学生は、戸山公園を抜ける坂の途中で春風に吹かれながら、ふと「この風景を見るために、大学に来たのかもしれない」と思ったという。
大学とは、歩く時間のことだったのかもしれない
朝、眠い目をこすりながら坂を登った日。
サークルで笑い転げて、遅くまで残ったキャンパス。
一人で悩んで、ゆっくりと帰った夕暮れ。
それらの“歩く時間”が、いつの間にか「大学生活」になっていた。
卒業とは、それを少しずつ手放していくことなのかもしれない。
卒業して数年経っても、ふと大学の坂道を思い出すことがある。
何の変哲もない道が、なぜか特別な場所になっている。
それはきっと、そこに確かに“自分がいた”記憶があるからだ。
あなたが最後に歩いたキャンパスは、どこでしたか。
そこに、何を思いましたか。
何を話し、何を思い出し、何を残したでしょうか。
今、その道はもう通っていない。けれど、その道を歩いた時間は、きっと、あなたの中にずっと残っている。