その油そば屋、たぶん早稲田界隈にいる人ならわかると思う。
キャンパスからちょっと歩いたところにあって、よく外まで並んでる。
外観は綺麗。中も狭いけど清潔だし、味もおいしい。なんなら油そばの中ではかなり上位に好きな店だった。
だから、その日もなんとなく入った。
ゼミの帰りで、お腹が空いてて、でもラーメンってほど気合いもない。そういうときに、あの油そばはちょうどいい。
券売機で「大盛」を押して、カウンターに座る。
水を飲みながら、スマホをいじってた。いつも通りだった。
異変があったのは、厨房の奥のほうからだった。
店長らしき男性の声が聞こえた。
いや、“声”っていうか、怒鳴り声だった。
「だから言ってんだろ!何回ミスんだよ!」
「それ今やるって言ったじゃん!聞いてた!?なあ!?」
厨房の壁の奥から、低くて鋭い声が飛んでくる。
他の客も、たぶん全員気づいてたけど、誰も顔を上げなかった。
みんな、無言でスマホを見てるフリしてた。
私もそのひとりだった。
たぶん怒られてたのは、バイトの男の子。
前に見たことある気がする、大学生っぽい、たぶん私と同い年か、少し上。
ずっと「すみません」「すみません…」って言ってた。
その声が、びっくりするくらい小さくて、かすれてた。
厨房の中にいる人たちは、誰も笑ってなかった。
というか、誰も顔を動かしてなかった。
黙って麺を湯切りして、器に盛って、無言で仕上げていた。
注文した油そばが出てきたとき、手がちょっと震えてた。
私じゃなくて、店員の人の手。
でも、器のふちにこぼれたタレを、いつもと同じ動作で拭いてた。
そういう“丁寧さ”だけが、すごく不自然に感じた。
食べてる間、味はよく分からなかった。
でも、残すのもなんだか悪い気がして、最後まで食べた。
店を出たのは、たぶん入ってから20分後くらいだったと思う。
でも、体感ではずっといた気がした。
外に出たときの夜風が変に冷たくて、歩くスピードが少しだけ早くなった。
あれから、あの油そば屋には行ってない。
別に不買運動とか、怒ってるとかじゃない。
ただ、もうあの空気に戻る自信がないだけ。
誰かに話したこともなかった。
「飲食店あるあるだよ」とか、「厳しい店は厳しいからね」って言われたら、
きっと何も言えなくなるのが分かってたから。
でも、自分が“見てしまった側”であることだけは、今もずっと引っかかってる。
その店の油そばは、たしかにおいしかった。
でも、それ以上に、あの日の空気のほうが強く残ってる。
誰かの怒鳴り声と、誰かのかすれた「すみません」。
油の匂いと、無言の客たち。
全部ちゃんと混ざって、私の記憶に焼きついてしまった。

※画像は記事内の油そば屋とは関係はございません。