Zoom越しに刻まれた、忘れたくない“名講義”の記
こんにちは。文学部4年のN.Hです。
「え、大学って家から始まるの?」
2020年4月、コロナ禍と同時に大学生活がスタートした私たちの“最初の授業”は、教室ではなく、Zoomの画面の向こうだった。リンクが開けない、音声が出ない、チャットが荒れる。そんな小さな混乱を毎日繰り返しながら、大学というものを、私たちは“画面の中”で学んできた。
でも、その中にあった。
今でもふと思い出す、“伝説級の神回授業”たちが。
オンラインなのに引き込まれた、“教授がコンテンツ化した”講義たち
文化構想の「映像表現論」では、毎回プロ顔負けのOPムービーが流れた。オリジナルBGMとテーマに沿った演出。まるで1本の短編映画が講義の前座に用意されていたようなあの時間は、まさに授業というより“作品”だった。
政治学の特講では、海外からゲスト教授がリアルタイム出演。画面越しに語られる世界情勢は、ニュースよりもずっと臨場感があり、日本語訳字幕と英語が交差するZoomの空間は、まるで国連の小さな会議室のようだった。
“声が良すぎて寝られない”と噂になった心理学の先生は、語り口が心地よくて、毎週その授業だけは耳だけで聴いても学びになると言われていた。最後の授業で、学生たちがZoomのチャット欄にこっそり「ありがとう」を打ち込む姿が、忘れられない。
チャット、Slack、匿名ツール。バラバラだけどつながってた
オンライン授業は、間違いなく“ひとりの世界”だった。けれど、その孤独を少しだけやわらげてくれたのが、チャット欄やSlackだった。
誰かの提出直前の「やばい」の書き込みに安心したり、講義中のチャットで「この話、面白すぎる」って誰かがつぶやくのに救われたり。名前も顔もわからない人と、「この授業、すごいよね」って感じられた瞬間が、確かにあった。
“教授に直接会ったことはないけど、人生に残ってる”という感覚。オンライン世代ならではの不思議な距離感が、私たちの記憶には焼きついている。
レポート地獄でもなぜか人気。自分と向き合う場になった英文学演習
Slack上で文学作品をめぐる対話が続き、誰かの感想が次の誰かの言葉を引き出す。そんな“テキストのキャッチボール”が続いた講義があった。
読み、書き、考え、そして誰かの言葉に反応する。その積み重ねが、オンラインであることを忘れさせてくれた。教室で誰かと直接話さなくても、じわじわと“人と読書でつながる”感覚があった。
あの授業がなければ、「自分の意見って、文字にするとこんな風になるんだ」と気づくことはなかったかもしれない。
Zoomに救われた朝。通学なしという最高の贅沢
授業開始3分前に起きても間に合う。背景をバーチャルにして、すっぴんのままログイン。通学という“ハードル”がなくなったことで、「勉強の入り口」が低くなったと感じた人も多い。
誰とも話さなくていい。発言もチャットでできる。カメラOFFでも、ちゃんと聞いてさえいれば単位がもらえる。その自由さは、ときに甘えを生んだけれど、ときに“救い”にもなっていた。
画面の向こうの大学は、意外と優しかった。
でも、やっぱり“会いたかった”という思いは、ずっと残ってる
あのころの講義は面白かったし、刺激もあった。けれど終わって画面を閉じるたびに、部屋の静けさが少しだけ寂しかった。
「一緒に見てたら、きっとこの授業もっと楽しかった」
「この内容について、誰かと話したかった」
「“あの先生すごくない?”って、帰り道に誰かと語り合いたかった」
Zoomを抜けた瞬間に現実へ戻る、その落差がきつかった。学びはそこにあっても、“共有”が置き去りにされるような感覚。
オンラインは効率が良かった。だけど、大学は“誰かと一緒に過ごす時間”でもあったんだと、ようやく気づいた。
大学に行ったことがない。それでも大学生だった私たちへ
キャンパスのにぎわいも、昼休みの学食の喧騒も、サークルのビラ配りも、ほとんど知らないまま卒業を迎える私たちは、もしかしたら“何かを取りこぼした世代”なのかもしれない。
でも、振り返って思うのは、「それでも、ちゃんと大学してた」ということ。
Zoom越しに頷いたあの瞬間
一人でESを書きながら、録画を何度も見直した夜
Slackで「わかる」って返してくれた誰かの反応
孤独だったけど、“たしかにあった”大学生活の証拠たち
画面の中で受け取った知識、悩みながら書いたレポート、チャットで交わされた一言。それらは今でも、確かに“大学の時間”だった。
あの授業、もう一度受けたいと思ってる人へ
録画はもうないし、先生は非常勤だったから再開される可能性はほとんどない。それでもあの授業が今も記憶に残っているなら、それはもうあなたの大学生活の大切な一部。
ふとした瞬間に、「あのときの話、今役に立ってるな」と思えるなら、その講義は“神回”だったんだと思う。
私たちは、誰に見られなくても、ちゃんと学んだ。
Zoom越しに、大学とつながっていた。
画面の中に、“未来の自分”の輪郭を描いていた。
その証拠を、ちゃんと自分の中に持っている。
だからもう、「かわいそうな世代」じゃない。
むしろ、こんなにも“特殊でリアルだった”大学生活を過ごした私たちは、
ちょっと誇っていいと思う。
あの授業を、あの時に受けた自分に、心から「よくやったね」と言いたい。